✝Gospel・ウタ方面✝
◆ゴスペルEXPLOSION20092009/10/4
◆ゴスペルライブ@嘉手納基地 BXオープニングセレモニー2009/10/3
☆ヒーリング方面☆
◆ 体の不調だけでなく心のカゼにも効くヒーリング・・・まるでエネルギー温泉♪
◆気軽に受けられて効果の早い心理療法。。。心の奥にあるスイッチ切り替えます。
2008年06月29日
霊性のペアレンツに捧ぐ
日本に生まれ育ったらそういう感覚を持つ人になる人が大半だと思いますが、
私もまた「信仰ってナニ」という人でした。
そんなわたしでしたが・・・
写真はニールセン夫妻。
お父さんは牧師さん。私に神サマの存在を見せてくれた人です。

といっても、「神さまとはね」とかの説教を通して私に神を教えたのではありませんでした。
彼の言動は私にとって、とても善き人に映りました。
何というか人間性の完成されたような人に見えましたので、
世の中にはこんな人もいるんだぁ~、という感心と尊敬から入っていったのです。
それで、「こんな人が『居る』と確信を持って言うのなら、
カミサマってやつは本当に居るんだろうな」と思うようになっていったのです。
それまでにも、なにやら突き止めることの難しい大きくてフシギな力、
限りなく自分に味方してくれている見えないパワー、というのをものすごく感じてはいたので、
そのようなエネルギーを身近に置くことで意識的に活用していこうという先人の知恵が
”神”という存在を生み出したのではないかと考えたのです。
(考えたというより勘?直感に近いですが)
私の中で”SomethingGreat”と”神”が一体化し、スッと腑に落ちた瞬間でした。
この時点から私の中に神が存在することになります。
神といえば、世界中に、その地域に合わせた姿形で多くの存在があります。
じゃぁどの宗教が選択すべき正しいものなのといえば、
先人達の霊性(神を感じる部分)が、
自分達の地域のスタイルで最も理解しやすく活用しやすい形に現しただけであって、
感じ取り・畏敬の念を抱いている対象は同じものなのじゃないかな~と思っています。
(そう考えると、沖縄の夏はゴーヤーにモーイと体を冷やす瓜類が大活躍なように、
各地域の人達が気候や風土に合わせて自分で一番体に良い食べ物を選択するように
宗教もあってよいということになり、宗教戦争ってのは全く意味を持たなくなります)
なんだけど、わたしにとっては日本の”八百万の神”だとしっくりこなかった理由があります。
キリスト教でいう”全知全能の創造の父”というスタイルのほうが、
両手を広げて全宇宙を抱きかかえるような姿の”何か偉大なもの”をイメージできたので、
全知全能の神が宇宙の委員長、その他の神々は各地域の班長、
のように位置づけることがしっくりと馴染んだのです。
いずれにしても、どの神も「あり」であってケンカの必要はないです。
そんなこんなで、私にとっては先ずはじめにSomethingGreatありき、
それを何かと関連付けるなら全知全能の神、という回路ができあがったのです。
かといって、自分が「それはある」と思うからと言って、
万人にあるのいかといえばそうではない場合もありますから、
「ある」人と「ない」人の間での議論にも全く意味がないと考えます。
いや、実際には万人に対して”在る”と感じてはいるのですが、
霊性が動いていなくて神を感じることに意味を持たない人にとっては、
感じないものは無いに等しい、という回路しか真実でないわけです。
逆に、霊性がアクティブになっていて神の存在を感じ取り、
「自分を見つめる偉大な者に恥じない言動ができる人でありたい」
など善き者であるための意識と姿勢が生まれるなら、
それがその人にとっての真実なのです。
・・・・・・・・・・って。
あの写真からこんなに長話をするつもりじゃなかったのですが、
始めて神について言葉に現し、アウトプットすることで整理ができました。
著者が神との会話を記録したという「神との対話」というのは本物なのでしょうね。
自分の思考以上の物が降りてきて突き動かされるように書く、ってあると思います。
それで、私をそういう心持ちに導いた直後、ご夫妻はカンボジアに旅立たれました。
「教育を受けられない、それどころか日々満足に水も飲めない子供達がいるから」と。
生まれたばかりの私はどうして良いか分からなくなってしまったし寂しかったけれど、
建てたばかりの家、やっとゆっくり沖縄に落ち着けるといった状況を惜しげも無く捨て、
「カミサマに選ばれてその子達を助けなければいけないから」と行ってしまった姿は、
更に私の尊敬の念を深めると同時に、神の存在をよりくっきりと現しました。
そして、遠く離れて10年以上も連絡をとることはなかったのです。
その間、ニールセン氏だから行動によって私をこの心持ちに導いたのだという思いから
他の教会に通うことはありませんでした。でも、賛美したい気持ちはあって・・・
憑かれたようにジャンベを叩いていた時期があったり アフリカンダンスにも興味がある私は、
きっと訳あってブラックのリズムに弱いのでしょう、ゴスペルに強い興味を持っていました。
でもゴスペルって習えるところないな~と思っていたところ、その念は、
日本でゴスペルといえばこの人、という奏者と指導者の奥様との出会いを
いとも簡単にあっさりと、自然すぎる形をとって引き寄せたのです。
そしてコンサートを控え、ニールセン夫妻の息子さん(沖縄在住)に知らせることにしました。
ご両親の導きで今に繋がっていることを伝えようと思ったのです。
10年以上も保管していたアドレスに、よく届いたものです。。。
パソコンに日本語が入っていない人なので少し大変でしたが、
お互いの近況を伝え合うには十分なコミュニケーションが取れました。
そしてニュースが。。。
お母さんが、亡くなっていたのです。
私が連絡するほんの数週間前のことです。
私に聖書と賛美歌の本をくれた人でした。
カンボジアに発った後2~3年の間は彼女の事業を私が引き継いで行っていました。
彼女が、私に連絡を取らせたのだと思いました。
全てが偶然ではないという確信が、ここにも、あそこにも散らばっているのです。
とてもショックなニュースでしたが、今日の19時から始まるコンサートでは、
彼女のために歌うという目的を1つはっきりと持つことができました。
彼女の闘病中、精神的肉体的に疲労したであろう、今悲しみの中にいるご家族のためにも。
それから、私がカウンセラーへの道を(も?)歩み出したのも
神?SomethingGreat?の計画のうちのはずなのです。
何か悩みの中にある方が少しでも楽になるように、
叶えたい未来がある方にビジョンが届けられるように、
そんな助けになるかも知れないことを意識しながら歌いたいと思っています。
今週は、怒涛の忙しさでした。
普段のいろいろの加えて、コンサート前の練習が連日入っていたから。
忙しく大変だったけど、激しく楽しくて充実してもいました。
コンサートが終わって普段の日々に戻ってしまうのが惜しい気もしています。
大きな大きな、長い長いヒトリゴトでした。
よっしゃ~!
行ってみよ~っ!
私もまた「信仰ってナニ」という人でした。
そんなわたしでしたが・・・
写真はニールセン夫妻。
お父さんは牧師さん。私に神サマの存在を見せてくれた人です。

といっても、「神さまとはね」とかの説教を通して私に神を教えたのではありませんでした。
彼の言動は私にとって、とても善き人に映りました。
何というか人間性の完成されたような人に見えましたので、
世の中にはこんな人もいるんだぁ~、という感心と尊敬から入っていったのです。
それで、「こんな人が『居る』と確信を持って言うのなら、
カミサマってやつは本当に居るんだろうな」と思うようになっていったのです。
それまでにも、なにやら突き止めることの難しい大きくてフシギな力、
限りなく自分に味方してくれている見えないパワー、というのをものすごく感じてはいたので、
そのようなエネルギーを身近に置くことで意識的に活用していこうという先人の知恵が
”神”という存在を生み出したのではないかと考えたのです。
(考えたというより勘?直感に近いですが)
私の中で”SomethingGreat”と”神”が一体化し、スッと腑に落ちた瞬間でした。
この時点から私の中に神が存在することになります。
神といえば、世界中に、その地域に合わせた姿形で多くの存在があります。
じゃぁどの宗教が選択すべき正しいものなのといえば、
先人達の霊性(神を感じる部分)が、
自分達の地域のスタイルで最も理解しやすく活用しやすい形に現しただけであって、
感じ取り・畏敬の念を抱いている対象は同じものなのじゃないかな~と思っています。
(そう考えると、沖縄の夏はゴーヤーにモーイと体を冷やす瓜類が大活躍なように、
各地域の人達が気候や風土に合わせて自分で一番体に良い食べ物を選択するように
宗教もあってよいということになり、宗教戦争ってのは全く意味を持たなくなります)
なんだけど、わたしにとっては日本の”八百万の神”だとしっくりこなかった理由があります。
キリスト教でいう”全知全能の創造の父”というスタイルのほうが、
両手を広げて全宇宙を抱きかかえるような姿の”何か偉大なもの”をイメージできたので、
全知全能の神が宇宙の委員長、その他の神々は各地域の班長、
のように位置づけることがしっくりと馴染んだのです。
いずれにしても、どの神も「あり」であってケンカの必要はないです。
そんなこんなで、私にとっては先ずはじめにSomethingGreatありき、
それを何かと関連付けるなら全知全能の神、という回路ができあがったのです。
かといって、自分が「それはある」と思うからと言って、
万人にあるのいかといえばそうではない場合もありますから、
「ある」人と「ない」人の間での議論にも全く意味がないと考えます。
いや、実際には万人に対して”在る”と感じてはいるのですが、
霊性が動いていなくて神を感じることに意味を持たない人にとっては、
感じないものは無いに等しい、という回路しか真実でないわけです。
逆に、霊性がアクティブになっていて神の存在を感じ取り、
「自分を見つめる偉大な者に恥じない言動ができる人でありたい」
など善き者であるための意識と姿勢が生まれるなら、
それがその人にとっての真実なのです。
・・・・・・・・・・って。
あの写真からこんなに長話をするつもりじゃなかったのですが、
始めて神について言葉に現し、アウトプットすることで整理ができました。
著者が神との会話を記録したという「神との対話」というのは本物なのでしょうね。
自分の思考以上の物が降りてきて突き動かされるように書く、ってあると思います。
それで、私をそういう心持ちに導いた直後、ご夫妻はカンボジアに旅立たれました。
「教育を受けられない、それどころか日々満足に水も飲めない子供達がいるから」と。
生まれたばかりの私はどうして良いか分からなくなってしまったし寂しかったけれど、
建てたばかりの家、やっとゆっくり沖縄に落ち着けるといった状況を惜しげも無く捨て、
「カミサマに選ばれてその子達を助けなければいけないから」と行ってしまった姿は、
更に私の尊敬の念を深めると同時に、神の存在をよりくっきりと現しました。
そして、遠く離れて10年以上も連絡をとることはなかったのです。
その間、ニールセン氏だから行動によって私をこの心持ちに導いたのだという思いから
他の教会に通うことはありませんでした。でも、賛美したい気持ちはあって・・・
憑かれたようにジャンベを叩いていた時期があったり アフリカンダンスにも興味がある私は、
きっと訳あってブラックのリズムに弱いのでしょう、ゴスペルに強い興味を持っていました。
でもゴスペルって習えるところないな~と思っていたところ、その念は、
日本でゴスペルといえばこの人、という奏者と指導者の奥様との出会いを
いとも簡単にあっさりと、自然すぎる形をとって引き寄せたのです。
そしてコンサートを控え、ニールセン夫妻の息子さん(沖縄在住)に知らせることにしました。
ご両親の導きで今に繋がっていることを伝えようと思ったのです。
10年以上も保管していたアドレスに、よく届いたものです。。。
パソコンに日本語が入っていない人なので少し大変でしたが、
お互いの近況を伝え合うには十分なコミュニケーションが取れました。
そしてニュースが。。。
お母さんが、亡くなっていたのです。
私が連絡するほんの数週間前のことです。
私に聖書と賛美歌の本をくれた人でした。
カンボジアに発った後2~3年の間は彼女の事業を私が引き継いで行っていました。
彼女が、私に連絡を取らせたのだと思いました。
全てが偶然ではないという確信が、ここにも、あそこにも散らばっているのです。
とてもショックなニュースでしたが、今日の19時から始まるコンサートでは、
彼女のために歌うという目的を1つはっきりと持つことができました。
彼女の闘病中、精神的肉体的に疲労したであろう、今悲しみの中にいるご家族のためにも。
それから、私がカウンセラーへの道を(も?)歩み出したのも
神?SomethingGreat?の計画のうちのはずなのです。
何か悩みの中にある方が少しでも楽になるように、
叶えたい未来がある方にビジョンが届けられるように、
そんな助けになるかも知れないことを意識しながら歌いたいと思っています。
今週は、怒涛の忙しさでした。
普段のいろいろの加えて、コンサート前の練習が連日入っていたから。
忙しく大変だったけど、激しく楽しくて充実してもいました。
コンサートが終わって普段の日々に戻ってしまうのが惜しい気もしています。
大きな大きな、長い長いヒトリゴトでした。
よっしゃ~!
行ってみよ~っ!
Posted by シンバ at 11:06│Comments(0)
│ゴスペル